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新時代の価値を生み出す人は20代に何をしていたか ー 株式会社アドレス代表取締役社長 佐別当隆志

  • 最終更新: 2022年3月11日

これまでガイアックスは多くの起業家を輩出してきており、現在ではその組織自体がスタートアップスタジオとして機能しています。起業を企てる起業家やその候補者が入社や投資を受けるために集まっており、また、それらの起業をサポートできるプロフェッショナルも多数、在籍しています。

その中には、Appbank株式会社やピクスタ株式会社、アディッシュ株式会社などをつくり、資金調達を経て上場を経験するガイアックス出身の起業家も。

今回は、多拠点プラットフォームADDressをつくったガイアックス出身の起業家をご紹介します。

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今回インタビューしたのは株式会社アドレス代表取締役社長の佐別当隆志(さべっとう たかし)さん。

佐別当さんは2000年にガイアックスに入社し、広報や新規事業開発を経てシェアリングエコノミー協会の立ち上げや、“日本で一番シェアを体験できるビル”Nagatacho GRiDの立ち上げ、多拠点生活プラットフォームであるADDressの立ち上げを行ってきました。ガイアックスの中でも一際ダイナミックなチャレンジを繰り返している佐別当さんは、どんな想いを持って行動されてきたのでしょうか。

前編では、佐別当さんの学生時代のお話から、ガイアックスとの出会いについてお聞きしていきます。

佐別当 隆志

佐別当 隆志

株式会社アドレス代表取締役・シェアリングエコノミー協会理事

2000年2月入社。広報・事業開発を経て、2015年シェアリングエコノミーに特化したWebメディア「Share! Share! Share!」を公開。2016年1月一般社団法人シェアリングエコノミー協会を設立し、事務局長に就任。ガイアックスではブランド推進室に所属。 副業でシェア時代の家族とゲストの一軒家、「Miraie」を運営。New York Timesなど国内外のメディアが注目。

「何のために働くのか」想いを形にできる仕事を模索した学生時代

ー 佐別当さんはどんな学生生活を過ごしていましたか?

佐別当 高校時代は年間数日くらいしか休みがないようなハードなバスケ部に所属していました。
高校2年生の時に阪神大震災があり、変わらず部活に励みつつも、震災は僕が社会的なことを考えるきっかけになりましたね。

そしていよいよ真剣に大学選びをしなければいけないとなった時に、たまたま国際機関で活躍する日本人の方のニュースを見たんです。世界の紛争解決に尽力して評価されているという内容でした。どう見ても普通の日本人のおっちゃんなんですけど、国際的に活躍されていて。

当時大阪の八尾という田舎に住んでいた僕は「そんなキャリアがあるんだ」と影響を受けて、国際的に社会をよりよくする仕事に就ける大学に行きたいという想いが強くなっていきました。そして外交官や国際NGOや国連といったキャリアを目指す可能性があるところに飛び込んでみたいと考えて、国際関係学部のある立命館大学を目指すことにしました。

センター試験の5教科は一切勉強せずに国語と数学と英語に絞って、立命館をいろんな方式で5回受験をして、結果的に第一志望の国際関係学部にだけ受かって。そうして奇跡的な幕開けで大学生活は始まったんですけど、入学後1週間くらいで早々に当初の目標は見失ってしまいました(笑)。

ー 一体何があったのでしょうか?

佐別当 もともと興味を持っていた国際機関の仕事が大官僚組織だということを知り、「これはやりたかったことと違う」と思うようになっていきました。僕は上の方で仕事をするのではなくて、もっと現場で紛争解決のために走り回るような仕事をしたいと思っていたんです。

国際関係学部にいる学生は半分以上が帰国子女や海外生活経験のある人達だったので、国際色豊かな人達と知り合えたことで当時英語もまともに話せなかったような自分は随分影響を受けました。

大学生になってからは半年に一回は海外に行くような生活に変わり、大学生活自体は楽しかったですし、大学の授業も面白かったんですよ。1〜2年次は刺激のシャワーを浴びるような基礎学習が多く、視野や視座はどんどん広く高くなっていきました。授業では模擬国連のようなことをしたり、世界中の文化や宗教を含めた歴史について学びながら、実際にあった事象について「あなたはどう思いますか?」と問いを投げられるようなものが多かったです。

授業以外では、僕はバスケが好きだったので、関西で6年連続12連覇している強いバスケサークルに入りました。そのサークルでは1年生が強かったんですけど、チームが年功序列だったので1年生メンバー全員でサークルを辞めて、社会人リーグに入るためにクラブリーグに参加することにしました。みんなでユニフォームを作ったりしながら、10数名でハードな目標を設定して活動していて。何もないところからリーグに参加し始めて、6部からどんどん勝ち進んで最後は1部までいきました(笑)。

 

佐別当 隆志

 

ー 大学生活を楽しみつつ、その後はどのようにキャリアを考え始めましたか?

佐別当 最初に海外に行った時の経験がかなり自分の仕事観に影響を与えていると思います。
大学2年生の夏に学校のコースでニュージーランドに5週間短期留学をして、その中の1つに仕事に関して考える授業がありました。授業のメインテーマは「live to work / work to live」、「働くために生きるのか、生きるために働くのか、あなたはどっちなの?」ということについて考えていく授業で、先生はガソリンスタンドで働いているおばちゃんでした。

当時の僕は「どうして大学にまで行っておばちゃんに教えてもらわないといけないんだ」と思ったんですけど、彼女がとてもウキウキとした前向きな様子で話しているんですよね。「私はこの仕事に対して誇りを持っています。この仕事が終わったら数ヶ月間ヨーロッパにスノーボードの旅に出るの。自分の目標や目指す生活のために目の前にある仕事を一生懸命楽しくやっているから、この仕事には感謝しているし、ヨーロッパのことが楽しみで仕方がない」という話をしていて。

彼女にとって仕事とは、次の目標を達成するためにやるものなんです。当時は「Karoshi (過労死)」という単語が流行っていたので、「死ぬまで働くってどういうこと?」と日本人の僕は先生から逆に質問されたことを覚えています。

それまでの僕は「働くこと」は当たり前のことだと思っていて、何のために働くのかについて実はあまり考えたことがなくって。その時から、働くために生きる人間にはなりたくないと思うようになり、自分が何のために働くのかを考え続けながら学生生活を送るようになりました。

その後、当時のアルバイト先の後輩が広告批評という雑誌を貸してくれたことがきっかけで、広告業界に興味を持つようになりました。後輩が貸してくれたのはナイキの特集号で、ナイキがどんな想いを持ってマイケル・ジョーダンのクリエイティブをやってきたのかという話が約100ページにわたって解説されていて、ナイキの広告のクリエイティブを担当しているWieden+Kennedyがナイキの成長の起爆剤になっということも書かれていました。

僕自身もマイケル・ジョーダンにかなり憧れていましたが、バスケはジョーダンとナイキによって創造されたマーケットと言っても過言ではなくて、夢も希望もすごかった。雑誌を読んですっかり感動した僕は、就活直前の1998年に一人でナイキやWieden+Kennedyのオフィスがあるポートランドに行き、アポなしでその2つの会社を訪問しました(笑)。

ナイキのオフィスは「ナイキ・ワールド・キャンパス」と呼ばれていて、「これがオフィスか!」と衝撃を受けましたし、当時のポートランドの状況も見て回ることができました。その時から、広告代理店という仕事はクリエイティビティで人を感動させる影響力のあり、たくさんの人に夢と希望を与えるような、社会を変えるような仕事なんじゃないかなと思うようになったんです。

当時は早い時期から就活を始めてOB訪問もしていて、電通は無理でも博報堂や旭通信ならいけるんじゃないかと言われていましたが、就職氷河期ということもあって軒並み書類や一次面接で落ちてしまって。その状況でも内定をもらっている人達を見ると、アメフト部のキャプテンやっていたりとか、自分を表現できる成果や実績がある人達なんですよね。それならもう1年大学に行って、1年間の間に自分が見せられる成果を残すためにトライしようと決めました。

そこから京都のテレビ局でアルバイトをしたり、稲盛和夫さんが創設した稲盛財団の京都賞を運営するNPO団体に入って活動したり。その活動の一環でNPO法人ETIC.(エティック)という団体からインターンシップのことを教えてもらい、2000年1月にガイアックスに出会いました。

 

佐別当 隆志

 

インターンも新卒も関係ない。ガイアックスの「当たり前感覚」とは?

ー 就職のために大学を延長している間にガイアックスに出会ったんですね。

佐別当 インターンとして2ヶ月間限定で広報の立ち上げに携われるということで、現場でリアルな経験も積めるし、東京にも行けるのでそのまま就活をしようと思っていました。

僕のミッションは週5日毎日プレスリリースを流して、月に1〜2回は記者発表会をして、2ヶ月の間に無料で本を出版するというもので、かなりハードな日々を送りました。プレスリリースを書けるネタなんて毎日あるわけないじゃないですか。なので自分でイベントを企画したり、いろんな人から話を聞いてそれを勝手にプレスリリースにして流したり。めちゃくちゃなことをしていましたが、そのおかげで記者リストが2ヶ月間で約170件集まって、テレビの取材も含めてたくさんメディアに取り上げられ、本もなんとか出版することができました。

2ヶ月でこれだけのことができて、ちょうど会社が資金調達に成功していたので、PRだけじゃなくて広告宣伝もやらせてくださいと交渉をして、マーケティング専門誌である宣伝会議に広告を出したり、博報堂に発注してインターFMに広告を出稿したり、1千万くらい使わせてもらいました。成果はほぼゼロだったんですけどね(笑)。

ー インターン時代からダイナミックですね!その後はどんな流れでガイアックスに入社したのでしょうか?

佐別当 当初は2ヶ月間だけの予定だったのですが、社員で残れば?という話をいただいて、残った場合のキャリアと、就活してどこかの広告代理店に入った場合のキャリアを比較して考えてみました。

大手の広告代理店だと活躍しているのは大体30代前半くらいの人で、要は入社してから10年間は自分の仕事として残せるものがないということになります。大企業で下積みを経てから大きなお金を動かすというキャリアと、ガイアックスで経験した2ヶ月を10年間続けた場合のキャリアを考えたら、自分が進みたいのは圧倒的に後者だろうと思いました。

インターネットは20代の人達が作り上げていた産業でしたし、インターネットコミュニティやインターネットを使ったPRはまだほとんどチャレンジがされていないタイミング。そこで頑張れば頑張るほど自分がナンバー1になれるチャンスがあるタイミングだったので、ガイアックスでやっていこうと決めました。

その後、入社してからもPRや宣伝をしていくのかと思っていたら、社長から「営業マネージャーをやって」と声がかかったんですね。当時の僕は、営業はPRや宣伝と比べると効率が悪い職種だと思っていたし、経験もないし、泥臭いこともそこまで好きでも得意でもないし、嫌だと言ったんです。すると当時の上司から「やる前からそんなことを言うな」と叱咤激励をいただき、確かにそうだなと。いろんな経験を積めるということでベンチャーに入り、10年間いろんなトライをしようと決めたわけなので、営業マネージャーをやることにしました。

飲食店の会員系サイトの営業をする仕事で、コンセプトは良かったんですけど、結果的にその事業は半年後に5億円ほどの赤字を出して撤退することになったり。その後もたくさんのハードシングスは続いていくんですけど、インターネットカフェ事業や法人向けの事業に携わったり、オンラインゲーム事業をやったり、数ヶ月や数年に一回は新しい部門を担当していました。

ー 入社して早い段階から色々とハードなことも経験されていたんですね。

佐別当 ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズとか、そういう人たちにどうやって勝つかということを考えさせられるわけです。最初のうちはこちらとしては学生インターンだしな、と思うわけですけど、学生・新卒だからというのは社会に出たら全く関係ないというのを洗脳されるが如く言われ続けて(笑)。例えば、ハーバードの学生達はビル・クリントンを呼んで世界的なカンファレンスを主催していて、学生でも世界を動かせることはいっぱいあるのに君は何してるの?みたいな(笑)。

当時のガイアックスでは「当たり前感覚」と言われていたんですけど、どこを自分の当たり前の標準値にするのか?という話はずっとされていたんですよね。自分の「当たり前感覚」を日本の学生で持つのか、ハーバードの学生で持つのか、それとも学生を辞めてGoogleみたいに起業するのか。なので、一般的に見たら入社1年目からハードシングスを経験して…と言われるかもしれないですけど、それがガイアックスにとっては「当たり前」だったということですね。

ー どこを当たり前の基準値にするか…。年齢や立場に縛られずに考えてみたいですね。ありがとうございました!

後編のブログはこちら:「定額住み放題サービスADDressが切り拓く、これまでの延長線上“じゃない”未来

インタビュー:荒井智子
ライティング:黒岩麻衣

編集後記

佐別当さんはとても淡々とした話し方をされるのですが、出てくる内容がどれも濃くて驚かされます。後半は、ガイアックスで様々なチャレンジをしてきた佐別当さんが、ご自身のビジョンを形作っていくストーリーをお届けします!

このインタビュー記事の動画も是非ご覧ください

Vision Notes Episode 7 – ADDress代表取締役社長 佐別当隆志
『多拠点生活プラットフォームADDressをつくった社長の物語』

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